役員交代の内示が出た瞬間、新規事業の担当者の胸には「また一から説明し直しか」という重さがよぎる。前任のスポンサーには何度も懸念点を潰し、ようやく「このまま進めていい」という合意を取り付けていたはずなのに、後任に代わった途端、同じ議論がゼロから始まる。しかも結論が同じとは限らない。COMMIT研究会でも「上が変わると全部リセットされる」という声が、複数回の研究会にわたって語られてきた。
この現象は、後任の人柄や相性の問題として片付けられがちだ。しかし多くの場合、原因はもっと単純な構造にある。承認された「結論」は議事録に残るが、そこに至るまでの懸念とその解消過程は、文書ではなくスポンサー本人の頭の中にしか残っていない。
なぜ「了承」が引き継がれないのか
新規事業の稟議が通る過程では、決裁者の懸念を一つずつ聞き出し、資料や説明を都度調整しながら合意を積み上げていく。この積み上げの結果である「承認する」という一言だけは議事録や稟議書に残るが、「なぜ承認に至ったか」——どんな懸念があり、どういう説明で解消されたか、どこまでは譲れてどこからは譲れないと合意したか——という過程は、多くの組織で記録の対象になっていない。
後任のスポンサーが引き継ぐのは、この空白の状態だ。前任が納得していた事実だけが伝聞で共有され、納得に至った理由は伝わらない。後任からすれば、目の前にあるのは「結論」だけで、その結論を自分の判断で検証し直すのはむしろ当然の振る舞いになる。担当者が「なぜまた同じ説明をさせられるのか」と感じる場面の多くは、後任が非協力的なのではなく、検証材料が結論しか残っていない状態を、後任なりの筋道で埋め直そうとしているだけだ。
スポンサー交代のタイミングと事業のリズムのズレ
この問題が起きやすい背景には、もう一つ構造的な理由がある。経営層の異動サイクルは一般に2〜3年程度で回る一方、新規事業が構想から量産・全社展開に至るまでの意思決定サイクルは、それより長くかかることが珍しくない。つまり多くの新規事業は、スポンサーが最低でも一度は入れ替わることを前提にせざるを得ない位置にいる。
にもかかわらず、多くの組織は「今のスポンサーがいる間に決着させる」という前提でプロジェクトの意思決定プロセスを設計している。スポンサー交代を例外的な事態として扱っているため、実際に交代が起きるたびに、引き継ぎの手続きも合意の再構築も、担当者がその都度その場でしのぐ。交代が起きる頻度を踏まえれば、これは例外処理ではなく、恒常的に発生する事象として設計に織り込むべき対象のはずだ。
引き継ぎを人事異動の手続きに任せない
一般的な人事異動の引き継ぎは、担当業務の一覧・進行中の案件リスト・関係者連絡先といった「何が動いているか」の共有に主眼が置かれる。新規事業のスポンサー交代で本当に欠けているのは、この種の業務引き継ぎではなく、「なぜその判断に至ったか」という意思決定の背景そのものだ。だとすれば、引き継ぎの主導権を人事異動の手続きに委ねたままにせず、事業側が自分たちの手で埋める必要がある。
具体的には、次の3点を押さえると、承認の根拠が特定の個人の記憶から離れて組織の側に残るようになる。承認事項だけでなく、そこに至るまでに出た懸念とその解消方法を都度記録しておく「意思決定ログ」を持つ。スポンサー交代の内示が出た時点で、後任向けの1枚サマリー——何を、なぜ、どこまで合意したか——を事業側から先に渡す。そして意思決定の権限を「この役職・この会議体が、この基準で承認した」という形に紐づけ、承認したのが誰かではなくどの基準で承認されたかを記録に残す。これができていれば、承認した本人が変わっても、承認の根拠そのものは組織に残る。
問い直すべきは人柄ではなく設計
「スポンサーが変わって話が振り出しに戻った」という経験は、多くの場合、後任の理解力や協力姿勢の問題として語られる。しかし実際に壊れているのは、意思決定を特定の個人の記憶だけに依存させてきた設計のほうだ。次にスポンサー交代の噂を耳にしたときにまず着手すべきなのは、後任への根回しではなく、「これまでの合意を、自分の言葉でどう1枚にまとめ直せるか」を書き出してみることかもしれない。